生命工ネルギーを補給するための禅定- 生命工ネルギーを補給するための禅定 -光りを入れると自分のエネルギーを病人に吸収されるから、疲れる場合が多い。 エネルギーを補給せずに光りを入れてばかりいると、遂には自分の身体の活力を失って病気になってしまうことがある。 光りを入れた後は必らず禅定をして、生命エネルギーを充足させておくことである。 奇跡は自分が起こすのはない。 神が直接起こされるのでもない。 神の力が、直接現れる事はないのである。 指導する人の心と指導を受ける人の心に、偽りがないかを守護霊は見て、その守護霊が、また守護霊が自分の力では及ばないと思った時は、その問題を解決するにふさわしい指導霊、或は光の指導霊にお願いをしてそこに光りが注がれるのである。 あの世からの協力があって初めて奇跡が行なわれるのであるのに、いざ奇跡が起るとそれを自分の力だと思い増上慢になるとあの世からの協カが得られなくなる。 本人の心はまだ充分に法がわかり、神の存在がはっきり分かったというわけでもないのに、奇跡が起ることがある。 それはそのような奇跡を見せることによって、その人がまだよく悟っているわけでもないのであるが、あの世の存在、神の存在を知らせて正しい道に導こうという時に、奇跡を見せることがある。 そういう場合に増上慢になって人に誇示する心になると、守護霊、指導霊たちが協力しなくなる。 そうすると、前には奇跡が起ったのに、今度はいくら祈っても念じてもどうにもならない、病気は治らないということが起ってくる。 その時に自分が増上慢であったことを反省して、心を謙虚に敬虔にすればよいのであるが、中には自分が反省することを忘れて「正法も効かなくなった」「神はないのか」という人も出てくる。 正法を聞いてよくなった後で、また問題が出てきたり病気がぶり返したりすることがある。 多くの場合、第1回目の奇跡は自分の心はあまり変っていないのに、あの世から協力があって起こったのであり、今度は本当に自分の心を変えて解決しなければならないのであるから、素直で明るい、それでいて敬虔な謙虚な心になって、祈らなければいけないのである。 初めは立派な指導者だと見られていた人が、後にはなんの指導カも持たなくなるのも、増上慢になったからである。 増上慢になって指導カを失った指導者は、自分の権威を保とうとして高圧的に命令して、会員を支配しようとし、自分の指導力のないことを見抜かれないために人に会わなくなる。 あの世からの協力を受けることが出来ないから、話すことも書くことも、なんの感激も与えない、通り一遍の紋切口上型になる。 だから高橋信次先生がいつも「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われ、謙虚さ敬度さを失った指導者は偽者であると言われたのである。 |